『竹島の日』 竹島奪還行動
皇紀二六七八年二月二十二日
本日は島根県が制定した竹島の日ということで、我々愛国党は竹島奪還を訴え運動を展開した。
予測してたとはいえ、いつも以上の過剰な警備により行く手を阻まれる
我々、大日本愛国党は一日も早く不当に占拠されている皇土の奪還を目指すものであります。
–補足–
1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国大統領 李承晩が、竹島は自国の支配下にあると宣言し、同時にマッカーサーラインの替わりとなる李承晩ラインを設定した。
日本政府は同月28日に「公海上の線引きに抗議するとともに、竹島に領土権を主張しているかのように見えるがそのような僭称または要求を認めない」と述べた。
この時点では韓国が本当に領土権を主張しているのかどうか不確実であったが、2月12日韓国は反論を提示し、以降、両国間で文書を交換するようになった。
李承晩ラインは韓国が一方的に宣言したものであり、日本政府もアメリカもこれを国際法上不当なものと抗議した。
1952年7月26日、日米安保条約を結んでいるアメリカ政府と日本政府は竹島をアメリカ軍の訓練地として日本国が提供することを約する協定を締結したが、翌1953年1月12日、韓国は「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示し、同2月4日には第一大邦丸事件が発生、船長が韓国軍から銃撃を受け死亡した。
同4月20日には韓国の独島義勇守備隊が竹島に駐屯して以降韓国警察の警備隊が占拠を続けている。
日本政府は当初より韓国側の不法占拠であるとの声明を出して抗議し続けているが、現在もこの領土問題は解決に至っていない。
[韓国軍による日本人漁民殺害や日本漁船拿捕]
1952年1月18日に韓国の李承晩大統領によって海洋主権宣言に基づく漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)がひかれ、竹島が韓国の支配下にあると一方的に宣言した。
1952年のこの宣言から1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結までに、韓国軍はライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(死亡者数は不明)させ、3,929人を抑留した。
韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。
1953年(昭和28年)1月12日、韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕して以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。
同年2月4日には第一大邦丸事件が発生した。
済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。
また日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
同年4月20日には韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯。
6月24日、日本の水産高校の船舶が独島義勇軍守備隊に拿捕される。
6月27日に日本の海上保安庁と島根県が竹島調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建て、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。
すると、7月12日に竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船「へくら」(PS-9) に90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込む事件が起きる。
以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
なお当時韓国には拿捕の法的根拠である漁業資源保護法は施行されておらず、日本漁船拿捕は国際法また韓国国内法においても非合法的な行為であった。
この韓国の行為に対して日本の水産庁は「他国の類似事例とは比較にならないほど苛烈」と評した。
また、韓国李承晩体制下に行われたかかる行為を、1960年駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世は、国務省への機密電文の中で「国際的な品行や道徳等の基本原理を無視した実力行使の海賊行為」と表現し、「日本人は李承晩の占領主義的手法で苦しんでいる」と訴えている。
Wikipediaより抜粋